○○「寝ることが趣味です」

現代において、寝ることが趣味という人は意外に多い。

特に私が中学生の時分にこの趣味を持った人が周りに最も多く、三十人いるクラス内に約十八人も存在していた。

しかし、感覚的にも読者の殆どはこの"寝ること"は趣味とは思えないであろう。

なぜなら、"趣味"という言葉は、個人的によくお世話になるコトバンクによると、こう書かれており、──一般にはより広く教養や美的感受性を養うこと,それに役立つ活動をいい,読書,各種の芸術の鑑賞,職業としてでなく作品の製作を楽しむことなどが趣味の代表といえよう(趣味(しゅみ)とは - コトバンク)──寝ることは明らかに一般的な趣味の定義からは外れているからだ。では何故、現代では"(本来趣味とはなり得ない)寝ること"を堂々と趣味と言い張る人が増えてきたのか。前置きが少々長くなったが、今回はこれが主題である。

ずばり、その理由は、「趣味は寝ることです」という言葉に含まれた退廃的な魅力に多くの人が惹かれているからであろう。

読んだのは少し前なので具体的な文は提示出来ないのが残念だが、梁石日さんの『タクシードライバー日誌』(1986)筑摩書房という本には面白い文があった。著者は、起きている間はほぼ常に働くことで社内営業収入ダントツトップを誇っていた人物に対して、「彼は寝ることが唯一の楽しみだと言っていた。正に彼は寝ることが趣味なのだ」と書いたのだ。

この時、"寝ることが趣味"というのは皮肉的な意味を含んでいる。この"皮肉的"という単語が重要なのだ。

冒頭で"寝ることが趣味"と言う人は中学生の時期に最も多いと書いた。

そして、この中学生の時期、つまりモラトリアム真っ只中の時期には、退廃的な物事に興味を示す。"退廃的な物事に興味を示す"とは、グロテスクな漫画、不健康なモチーフが好きになること、そしてニヒリズムという言葉を崇め、自他共に対して皮肉的な態度をとりたがることなどを指す。

さて、ここでもう一度"寝ることが趣味"という言葉について考えてみよう。

先程、"寝ることが趣味"には皮肉的な意味が含まれていると書いたが、それは何故、皮肉的な意味をもつのか。

それは触りに書いた通り、"寝ること"は明らかに趣味の定義からずれているからだ。さらに言えば、"寝ること"というのは生産から最も遠い、怠惰を連想させるような、"何もない"言葉だ。

つまり、「この世には趣味になるほど価値のある物事は何もない」という、正にニヒリズムな主張をニヒリストが好む皮肉という手段にのっとった結果が、「寝ることが趣味です」なのである。

そこから更に掘り下げると、「寝ることが趣味です」と発言する者はモラトリアム真っ只中であり、その言葉は必死にもがきいた末、この世に意味が見いだせないと感じた際の嘆きなのだ。