『薬膳料理』の魅力.pmf

 やはり私は『薬膳料理』が好きだ。もっとも膳には既に料理という意味が含まれているために辞書的には正しくはない言葉ではあるが、私が好きな類の料理においては薬膳でなく、『薬膳料理』と呼ぶ方が正しい。

 そもそも本来の薬膳とは漢方薬の材料を使った中国料理の事で、さらに言えば健康保持のための食事として、中国の医食同源の考えから生まれたものである。尚、医食同源とは日頃からバランスの取れた美味しい食事をとることで病気を予防し、治療しようとする考え方である。つまり真っ当かつ自明な健康法なのである。これは私の求めている『薬膳料理』ではない。

 私が求めているのは摂取するだけで劇的な効能が期待できるようなものだ。勿論それが兎に生えている角、或いは亀に生えている毛の如く存在するはずのないものである事は錬丹術の発展がまるでなく、健康関連の情報を中心とした情報番組が潰えていない事から薄々勘付いてはいる。しかし逆に言えば世界各国の古典において不老長寿の薬が頻出し、前述したような情報番組が潰えずむしろ盛んな事はかのようなものを求める事は原始的な欲求であり、かついくら文明が発展しても不老のみならず不死までをも実現するまではこの欲求が尽きぬ事を示している。

 『薬膳料理』はこの欲求を疑似的に満たしてくれる。霊薬にも劣らぬような誇張に誇張を重ねた効能を謳い文句に料理を提供してくれるからだ。それも、よりもっともらしく振舞うために多くの場合、対価を携えてくる。この場合、一般的には対価が大きいほど効能も大きいとされ、その対価は辛味、苦味、酸味、ショッキングな外見及び事柄、料理の届けられる過程内にある何かしらを要因とした希少性などとして料理を頼んだ客らに提供され、それぞれ口腔内のカプサイシン受容体で感じる痛覚、舌奥に位置する味蕾で感じる味覚、舌の両端に位置する味蕾で感じる味覚、眼前或いは脳内に浮かぶ刺激的なイメージ、私産の一部の損失或いは料理の完成までの苦労として彼らは味わう。この対価を味わう事が『薬膳料理』の最たる魅力であり、実際に現れる効果、効力なんてものは、プラシーボ効果が関の山であり、彼らは翌日のお通じがよかっただとか、排泄物の色がいつもより濃かっただとか、いつもより糞便が長尺だったなどの適当な事象を取り上げて少なくともプラスではあったと自分を納得させる。このような適当さ、曖昧さからこの類の料理を薬膳でなく『薬膳料理』と呼ぶ。よって鍵カッコも必須であったというわけだ。もしこの料理を手段の目的化と非難されれば反論できぬが、餓死する心配が殆どない現代社会において料理はもはや嗜好品であり、誰が何を食おうが人の勝手である。そっとしといてほしい。

 しかし、近年は薬事法を始めとした様々な法律によってあまりに出鱈目な効能を謳うことは禁止され始めている。一見今をときめく健康ブームと相性良さげな『薬膳料理』のブームが来ないのもそのせいだろう。まったく法律というのは文字の表面だけを撫でているに過ぎず、いまだ言語というものを持て余しているようだ。

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