パイプの巣

 ──バスに半日揺られた末に、この地を踏んだ。山に囲まれており、かつ道が舗装されてない為なのか、8月であるのにも関わらず比較的涼しげだった。

 曲がりくねった畦道を歩いていくと、幾つもの破家(あばらや)を見かけた。木製のサッシに嵌った擦り硝子を通して、輪郭のぼやけた白いカーテンが見えた。都会では見かけぬ非日常な光景に興奮しながらも、少し不穏な空気を感じた。又、その少し先の曲がり角に面するなにやら大きな葉と高い背丈を有する作物が目につく畑では、奥の方に人を見かけた。挨拶すべきが迷ったが、喉の入口付近につかえを感じたため、見なかったフリをして通り過ぎた。

 畑を過ぎて以降、人の住む家も見当たらない単調な道をしばらく歩くと目的の家が見えた。古民家にしては小さい方ではあるらしいが、都会育ちで大学を出たばかりの私にとってはとても大きいように感じられた。瓦屋根と土壁は背に面した青い山によく映え、柵もない広い庭には古びた手押しポンプと予め送っておいた家具の入った段ボールが積まれていた。私は今日からここに住むのだ。

 この家は家主が8年前に死んでからも、親想いで几帳面な息子が定期的に掃除していたらしいのだが、やはり家主のいない家の管理というのは相当大変と見えて、土地の売れないこのご時世にも関わらず、安い値段で売りに出されていたらしい。なるほど中は直ぐにも生活できそうなほど綺麗ではあったが、土壁には所々にひび割れと大きな窪みが見受けられた。しかし、壁は最初から白漆喰に塗り替えるつもりであり、事実次の日には左官の職人技によって外壁も内壁も綺麗に塗り替えられた。

 そして、塗り替えられた次の日、まだ乾いていないゆえ、朝日を過剰に反射して燐く白い外壁をまじまじと見ていると、右の側面に備え付けられた室外機の下に奇妙なものを見つけた。

 灰を地とした白斑(しろぶち)模様の、火口の結われたパイプらしきものが吸口をこちらに向け、壁に突き刺さっていたのだ。

 昆虫か何かの巣なのだろうが、ともかく壁がまだ乾ききっていない為、取り除こうと急いで柄の部分を握り締め、力の限り押してみるもびくともしない。もちろん虚弱体質ゆえ、腕力は無いかも知れないが、あまりに硬すぎる。落ち着いてよくよく観察してみると、丁寧に磨かれた泥団子と同様な、土の粒子の揃いに依る光沢が確認でき、すなわち普通の昆虫、例えばトックリバチが作るような原始的な泥の巣とは桁違いの技術が見受けられた。又、この壁はつい昨日に塗り変えてもらったばかりなのだから、この建造物は一夜の内に作られた事になるのも奇妙である。

 日が次第に昇ってきたようで、白壁からの反射の勢いも増して頭がくらくらし始めた為、家に入って赤茶けた畳の上に寝転がった。襖を全て開けた夏座敷と呼ばれるこの装いでは、涼しい風が吹き込む為に、幾らか気分がマシになり、明瞭な考えが出来るようになった時分、壁の塗り替えた左官達がちょっとしたいたづらとしてあのようなものを拵えたのではないかと考え始めた。というのも、光沢のある泥団子を作るには石灰を混ぜた砂を用いるのがコツであり、これは大津塗りといわれる伝統的な左官の技術と同じ原理だと気づいたのだ。当然白漆喰にも石灰は使わている為、左官らの道具であのパイプを拵えるのはそう難しくはないであろう。

 しかし、生物の本能的な行動ではなく、人為的ないたづらだと考えれば、次第に腹が立ってきて、今すぐにでも電話をかけて文句の一つでも行ってやろうとも考えたが、口内の唾液が少なくなり、それに反比例して唾液の粘度が増し始めたのを感じて、尻込みしてしまった。結局、壁の塗替えが終わるまで庭先に放置していた残りの家具をやみくもに運びこみ、庭が空になった頃には既に日は没していた。私はひどく疲れていた。

 遠くの電柱にカラスがおよそ3羽見えた。髪の塊が群れを成して、波のように動いていた。アスファルトからの輻射熱が纏わり付く。ポリエステル特有の高い衣擦れ、ひどく湾曲したワシ鼻、女の高い声、睨んでくる細い目。誰かが歯を磨いていないか。もう少し足音の響かない素材はないのだろうか。…彼らは何処に向かっているのだろう。少しくらい道に迷っている人が居ても良いと思う。背中のシャツの湿りが不快だ。淀んだ川が見える。飛び込んでやったら少しは周りの連中もうろたえるだろうか。小さく強い反照、魚であろう。コンクリートで囲まれている河も底には砂地が残されているらしい。すると巻き貝も居るのだろうな。巻き貝、家を背負った軟体生物。…川上から流れてきているのは腐った木材か?ああ、もう少しのぼった所にある無人バラックが崩れたのだな。あ、ホームレスが起きた。視界に入っていたのに気付かなかった。そういえばホームレスを見たのはかなり久しぶりのような気がする。蟻がたかっていて、消えそうだ。ダリの絵を思い出す。そういえば絵画を書こうと躍起になったことがあったな。あの時は断念したが、今はどうだろう。顔が女性器になっている人物のポートレートなんてどうだろう。…余りに幼稚な発送かもしれない。割れ目だけで十分暗喩できるだろう。下ネタはえげつない事を語るときほど遠回しに表現するほうが笑えるらしい。それなら…えっとなんだっけ、遠回しに表現するほうが良いことは覚えているが…。しかしもうそろそろ朝だ。起きないといけない。起きたら何をしようか。そうだ、巣だ、パイプの巣だ。起きたら直ぐに見に行こう。よし、三つ数えたら起きてやるぞ。三、二、一……。

 歯磨きをし、朝食を食べ、コーヒーを飲み、襖を開けて換気をし、更に布団を片付けようと手をかけたが、億劫になってしまったため、先に靴を履いて、例のものを見に行くことにした。夏といえども朝は流石に涼しく、何か羽織ってきたら良かったなと思いながら歩いた。あの壁の前に着き、室外機の下を覗き込むと、パイプから放射状に土色の筋が広がっていた。よくよく観察すると筋は扇型の連なりで形成されており、土色というのは地肌の土壁であった。

 その筋からまっさきに連想されるのはカタツムリがコンクリートに残す食痕である。彼らはコンクリートからカルシウムを摂取し、殻をより強固にするのに役立てているらしい。もちろん白漆喰に多分に含まれる石灰にだってカルシウムは含有されているため、かの強度を保つためには白漆喰で補強するのも不思議ではない。思えばパイプ表面の白斑も少し増えている気もする。ともかく、これで左官の所為でもなければ、パイプには確実に何かが住んでいると分かり、白漆喰の剥げという被害を被っているのにも関わらず、左官らに電話をしなくてよいという事実に胸を撫で下ろした。

 さて、次に気になるのは他でもないパイプの主である。巣の持つ、存在の証明書と存在のトバリというそれぞれ相反する二つの属性により、彼の正体に何やら神秘的なものを感じるほどに惹かれてきたのだ(この時点で壁の剥げはとうに気にならなくなってしまった)。正体に手っ取り早く迫るにはやはり古くから住む地元の人、に聞くのが良いと考え、吃音症の所為で今まで決心のつかなった挨拶も兼ねて曲がり角の畑をたずねてみようと思い立った。

 そうして、曲がり角に向かったところ、畑の手前にこの齢にしては姿勢の良い、溌剌としたお爺さんが居たので、すいません、と声をかけて会話を始めた。初めに軽い自己紹介を済ませた後、まず性格を見定めるために、この畑で育てている作物の事を聞いた。決して人当たりは良いわけではなかったが、この作物はヤツガシラだと言うことや、収穫の際の苦労などを丁寧に教えてくれた。悪い人では無いと分かった為、思い切って、且つなるべく自然に、かの巣の話題を切り出した。しかし、形状を説明する際にパイプという単語を発した時、彼は一瞬地面を一瞥し、再度顔をもたげた。先と比べると幾らか俯き加減であり、三白眼気味となった目はこちらを睨みつけてるようにも見え、何やら恐ろしく感じた私は今すぐにでも先の発言を撤回したかった。こうした刹那の沈黙を破ったのは、バス停方面から来たこの老人の配偶者とおぼしき老婆だった。柔らかい物腰で、どちら様か、と問われたので、簡単に自己紹介だけしたつもりで(というのもこのように狼狽や混乱している時には自分でも何が何やら分からず、ひどい滑舌で、途切れ途切れな言葉の欠片を羅列している事が殆どなのだ)、いそいそと逃げ帰ってしまった。

 家に着くなり、途端に疲れが押し寄せ、布団を敷く迄もなく畳の上で寝てしまった。

            *

 ──目が覚めると強烈な違和感に襲われた。白漆喰であったはずの内壁までが全て剥げており、窪みだらけの土壁が剥き出しとなっているのである。私は呆然としながら土壁に顔を近づけた。斜めに差し込む朝日の所為か、過去の生活が溜まった窪みとひび割れがやけに大きく虚ろに見えた。都会育ちであるにも関わらず、懐かしさを感じる土の匂いだけが心地良かった。

 頭上で軋むような音が鳴った。上を見上げようとしたとき、凄まじい音を立てながら梁が落ちてきて、私はその下敷きとなった。口から胃と腸とが飛び出した。続けざまに少しの間隙も無く、梁を失った家は崩れ始めた。土煙が舞い、懐かしい匂いが強くなっていくのを感じた。

 

 

 

 

 


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