存在の問いの必然性

→存在は、最も自明であり、最も普遍的な概念であると思われること、また定義されえないことから、暗がりにあるものであり、それが存在の問いが再度行われる原理的な必然性を示す。

 

存在の問いの(形式的)構造

→問う事は求めることであり、求めることというのは、求められているものの側からあらかじめ受け取った指向性を備えている。また、問う事は、ある存在者の働きであるから、それ自身固有の存在性格を帯びている。

 存在の意味へ向かって問いを立てることだけで存在の意味の解明に近づくことになるため、まずそれを目指す。

 1、「存在は何で"ある"か」というように存在について問うだけでも、質問者は存在が何であるかを漠然と知っている(存在了解)。つまり、漠然と、曖昧としているけども我々は存在が何であるかを少しだけ知っている。

 2、存在者の存在は、それ自体が存在者であるのではない。病気を引き起こすウイルス自体が病気ではないように。よって、存在をまるで存在者のように扱ってはならない。従って、存在への問いを明らかにするためや、存在の意味を理解するためには、存在者を発見する様式とは全く異なった概念組織が要求される。

 3、問われているものが存在で、その存在は存在者の存在なのだから、存在者がそれの存在のことで訊問を受けることとなる。このときの範例的な存在者は何で、またそれがいかなる優位をもつのか。

 4、2を満たすためには質問者となる存在者は質問の対象となるその存在において透明でないといけない。しかし、その存在において透明というのは存在者の存在様態である。つまり、その質問は問われる対象であるはずの存在によって本質的に規定されていることになる。これは一見、循環論法に見えるがそうではない。なぜなら存在者をその存在においてついて規定する(透明になる)ことはその際存在の意味についての明確な概念を用意しておかなくても可能であるからである(1参照)。

 結論を言うと、存在の問いには「循環論法」の含まれぬ構造だが、「再帰的に、あるいは先行的に、連関している」という注目すべき構造が含まれている。

 

存在問題の存在論的優位性

(存在の問いを「あらゆる存在者の存在は何を意味するか」という認識態度から見た必要性)

→基礎概念は、今日において再び考え直すべきであり、基礎概念とはそれぞれの科学のあらゆる主題的対象の根幹にある事象領域についての諸規定であるため、先行的に事象領域そのものを究明して、これらの規定において理解されねばならない。そして、ここでの事象領域は存在者そのものの領域からえられるのだから、この存在者をそれの存在の根本構成について解釈する事につながる。

 哲学的に第一義なものは、本来的な意味で歴史的に存在するもの(すなわち現存在)を解釈してそれの歴史性を究明することである。これが、広義における存在論(存在者の存在とは何であるか)の問題設定である。

 以上から、現存在の存在への問いは諸科学の先験的可能条件を目指すものであり、更に、諸科学に先行しているこれらを基づける全ての存在論そのものの可能条件を目指すものである。よって、全ての存在論は先行的に現存在の存在の意味を解明する事こそが己の基本的課題であると自覚しない限り、自分の本来の意図とすれ違う事となる。

 このようにして、『現存在の』存在への問いは正しく理解された存在論的研究により、少なくとも存在論及び存在論を根幹とする諸科学において考える必要性のある問題となる。

 

存在問題の存在的優位性

(存在の問いを「存在者はいかなる属性をもち、いかなる関係をもってちるのか」という実証的認識態度から見た優位)