十勢地町―2

がらっとカーテンを引き、捨蔵は下界を見下ろした。鋭いブレーキの音と鈍い衝突音により安眠を妨げられたからである。しかし、事実は特に面白みもなく泥にまみれた野良猫が車に轢かれていただけだった。
捨蔵は視線を朝焼けの空に向けて漠然と考えた。野生動物が車に轢かれて死ぬのは人間が森を削り、彼らの居住地を減らしてきたからだという黄色い声の主張は全くのお門違いであり、実際問題、ただ猫の天敵が大型肉食動物から鉄の猪に変わっただけではないのか、と。
その考えがより明晰な形に凝固することは、重なる鈍い音によって遮られた。視線を猫の死体に戻すと、頭は何処にも見当たらず、代わりにアスファルトがてらてらと血に濡れていた。捨蔵はそれを一瞥した時、ピクリと眉毛が上がり、瞳は揺らいだが、視界やその他諸々を遮るためにカーテンをぴしゃりと閉めてしまった。

十勢地町ー1

 これは私の遺書のようなものである。私には配偶者も親族も既にいないのだから、これを読んでいる貴方はおそらく清掃業者であろう。

 部屋に散乱している大量の手書きの地図は全て自作であり、架空のものである。つまり、そこに書かれている地名や地形は実在しないものであり、従ってこの世になんの利益ももたらさないのであるから焼いてもらって構わない。

 念のため、貴方が人一倍誠実で、私のその量から唯一且つ最愛の趣味であったと推測できるこの地図群の廃棄に抵抗があることを想定して断っておくが、この地図作りは趣味でもなければ、一度たりとも本当の意味で楽しんで作ったことは無い。というのも、私は職業柄、配線器具をあれこれ弄ることがあるのだが、ふとした時に私の注意不足が原因で感電してしまい、以来地図を作りたいという衝動に年がら年中追われるようになったのである。何かを食べているときや、何かを達成したとき、逆に酷く空腹なとき、責務に追われているときなど、別の快感或いは動因があるとき以外は常にその衝動が重くのしかかってくる。一度それが頭に浮かぶと脳が緊張し、漠然とした不安に襲われ、酷いときは嘔吐を繰り返す。にもかかわらず、地図が完成したときに得られる報酬は「緊張から解放された」という微弱な安心感程度であり、先の動因が頭に浮かぶまで延々とすぐに地図作りを繰り返す。そういう訳で私はこの地図群がむしろ憎いほどである。

 貴方が善行を果たすような気持ちでこの地図群を焼いてくれることを願う。

電車の中に居た人達

【10/18 8:37】

目の前の優先座席に老人が座った。歳は60-70くらいか。natural flight(大文字)とかかれたベージュの手提げ鞄を持ち、その中から青いビニール袋がはみ出している。その青いビニール袋の中身はA4サイズのルーズリーフが数枚、これもまた少しはみ出している。ルーズリーフにはクレヨンのような画材で幼児性の書いたような見受けられる。彼は老眼鏡をかけており、私のつり革に捕まった状態だと、高低差のせいで眼鏡の裏の裸眼と眼鏡に浮き上がる眼とが重なって、いやはみ出して見える。
何もかもはみ出してるこの老人は私が電車に乗り、そして降りるまでずっと私の足元あたりを悲しげに見つめていた。もしかしたら世の中からもはみ出しているのかも知れない。

【ある日の電車内を思い出して書いた】

正面に、黒のリュックを膝の上にのせ、更に腕を回すことで固定し、そのリュックの頂点に顔をうずめ、寝ている社会人或いは大学生らしき男性が居る。観察してて一番つまらないタイプである。
右には痘痕だらけの優しそうな社会人らしき男性。彼は周りから40代だと思われており、飲みの場なので30代という事をカミングアウトし、驚かれる、といった雰囲気を醸し出している。不思議な言い回しだがそうとしか言いようがない。
更にその右には性格の悪そうなお婆さんが居る。何故性格が悪いと判断したのかというと、口を常にへの字に結び、その上顎がなく、目元のたるみが目立つからである。彼女を見てふと思ったが、やはり人の性格というのは確実に顔に現れる。もちろん強面だが優しい人、優しそうだが狡猾な人、など一見性格と顔が正反対の人も居るが、それは一つの面だけを見ているから、更に言えば、一つの面の表面だけを見ているからである。ちゃんとよく見れば彼らだって、ただの強面でなく、ちゃんと"強面だが優しい人"の面構えを、優しい人の表情でなく"優しそうだが狡猾な人"の表情をしている。まあ、あの性格の悪そうな婆さんの顔は今この電車の中で短い時間見ただけで性格が悪いと断言するには早考すぎるかも知れないが。
さて、話も目線も逸れすぎた。一度正面に戻そう。あのつまらない奴は依然寝ている。これ以上彼について言及することはないだろう。その左には林家パー子を彷彿させる痴呆じみた婆さんが座っている。パー子を彷彿させる所以はきっと異常な外ハネの天パとピンクのジャンパーであろう。しかし、パー子みたいな外見の割には彼女もまた口をへの字に結んでいる。何か考えているのかとも思ったが、異常な外ハネの天パとピンクのジャンパーを着ている奴が何かものを考えられるとは思えない。きっと、苦いものでも食べているのであろう

【10/26 8:36】

この時間の電車に乗れば恐らく余裕をもって教室に入れるだろう。よってこの記録を開始する。まず正面にいるのはプラスチック素材、茶縁の丸眼鏡をかけた女性。膝の上にはcolemonのリュックサック。ずっと寝ている。その左隣には750ml缶のビールを飲みながら新聞とスマホをみる髭面の男。齢は40代程度であろう。足元には仕事鞄があることや、服装から察するとサラリーマンなようだが…。
さて正面にもどり、さらにその右。ここには手書きのもじで埋まったメモ帳を読む縁の細い眼鏡をかけ、紺のカーディガンを着たお婆さん。書いてある内容はわからないが、字自体は小さく、筆圧も弱い、如何にも女性の書いた字、といった感じである。

傘という憎たらしい奴

雨ってのはつくづく人を苛つかせる道具だと強く感じたのはまだ蒸し暑い九月の頭、もちろん雨が降っていた日のことだ。
その日俺は、学校側の方針で少し夏休みが盆から9月末まであるため、母方の祖母の家に帰省し、次いでに京都の美術館に行くことにしたのだ。祖母の家は大阪にあるため、必然的に電車を使わねばならない。しかし、先程も記した通り生憎の雨で、尚且つ蒸し暑いときた。皆さんも経験はあると思うが、こんな日の電車は正に地獄である。
まず、暑いため汗をかく。これが乾いた暑さによる噴き出るタイプの汗ならまだましなのだろうが、蒸し暑さによる滲み出る汗、ミネラルが不足しているようなベタベタしている汗なのだ。しかも、今回は帰省次いでの旅であるため、着替え諸々を入れるべくリュックサックで挑んでいる。もちろんリュックの下の位置には湿気が籠り、汗が蒸発できずどんどんシャツを濡らしていき、そのシャツは肌に密着し、湿気を更に閉じ込める。悪循環だ。不快の輪廻だ。
更にそれは周りの乗客でも起きる。そして次第に電車内の空間は人々の汗に由来する酸っぱい鼻をつくような臭いと先程の不快の輪廻によるフラストレーションで充満する。更にそれを九月末だからと中途半端な温度設定のクーラーから吹き出る生温い風がかき混ぜる。
これだけでもあの地獄絵図はありありと想像できると思うが、だめ押しとして傘について言及する。
この傘というのは非常に要領の悪い道具だ。まず機能が先端に集中しているため、必然的に重心もそこに集中する。そのため、傘側から提示されてる持ち手を無計画に持つと、本来の重さより重く、そして使いづらいように感じてしまい、ここでもまたフラストレーションが溜まる。
では、傘の中央を持てば良いではないか、と思った方もいるかもしれないが、この部分は雨を遮断する部分、『傘布』で覆われている。もちろんこの傘布は多くの場合濡れており、とてもここを持つわけにはいかない。
いやそもそも電車のなかで傘を大きく動かす必要はないだろうから手首に傘を掛ければよいだろう。幸い持ち手もそれを意図してかフック状になっている、と思った人もいるだろう。しかしこれもあまり良い案ではない。何故なら、これをするには腕を水平±30°の角度にしないと満足に掛けれないからだ。そしてその角度にした場合、必ず胸或いは腹上部の前に傘の持ち手が位置することになり、それはつまり傘布部分は上記の持ち方に比べて高いところに位置することを意味する。こうなると、周りの人の服に水滴がへばりつき、非常に迷惑である。こんなことで電車内空間のフラストレーション濃度が更に濃くなるのは勘弁だ。
と、まあ、こんな具合にこの傘という道具には持ち方の最適解が無いのだ。その上、その旨を傘の野郎に伝えてやると、じゃあ傘なんて使わずレインコートを使えばいいじゃないですか、なんて言いやがる。馬鹿野郎、レインコートなんて風情が無いじゃないか。お前じゃなきゃ雨は楽しくないんだよ。


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京都のタギング、ステッカー

まくらは後日余力があったら追加する。ともかく今回は京都で見たタギング及びステッカーを淡々と紹介する。
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『駐輪禁止』と書かれた看板(とその近く)にステッカーと二つのタギング。あのよく見る赤のステッカーのモチーフは忍者と思っているが、真偽は如何に。

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その奥の細いドアにもタギングがびっしり。

タギングとは関係ないが、この細いドアには

何か惹かれるものがある

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観光地の自販機の横はタギングとステッカーの宝庫である。特に下の方のステッカーは素晴らしい。ちなみに、BLUEというステッカーには2016と手書きで書かれており、このステッカーは二年前に貼られていたことがわかる。

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MEDX(後ろ二文字は不鮮明)黄色の顔のステッカーと右下の解読不可の約五文字のサングラスのおじさんのステッカーがとても好きだ。

また、破れて所々抜けているが『…イタイ…ハンクル…クス…』という文字が見える謎のステッカーも気になる。

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都会の道路脇によくある茶色の箱(なんだこれ)に書かれていた力作タギング

何と書いてあるかは分からないが。


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電話ボックスの下の箱にステッカーがびっしり。これは良い。もっとしっかり撮れば良かったと少し後悔した。ここで二つ上の写真にて疑問を呈したカタカナ縦読みステッカーの全容が明らかに。ただ依然として意味は分からない。ただのチーム名と見るべきか。唯一のタギングはその下にあるNewcastleと書かれたステッカーと同じチームだろうか。

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ステッカーの女の子可愛い。

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侘び寂びのある落書きである。これをタギングと呼ぶには寂しすぎるが。


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目玉が可愛い。(電話ボックス下の箱のステッカーにて長文を書いたので短文が続いてしまっている)
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パイプの裏のステッカーはどうやって貼ったのだろうか。かなり風化してるようだし、パイプのほうが後なのだろうか。しかし、パイプもかなり色褪せている。棒の先にステッカーを貼りつけ、差し込んだのだろうか。鶏卵(けいらん)前後論争ならぬ貼管(はりかん)前後戦争が始まりそうなのでこれ以上追及するのは辞めておく。
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◯◯厳禁と書かれた看板にはタギングを吸い付ける力があるのだろうか。

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噂に聞いていたがテプラで作られたステッカーは初めて見た。チーム名はNALIDE MIANI、と。

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先程の写真のすぐ上。
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カメラ作動中と書かれているその横に忍者ステッカー。流石この忍者ステッカーは全国的に見るだけあって手練れている。f:id:pvc_pipe:20181006222256j:image

殆どかすれていて見えない。なぜ上書きされないのだろうか。

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良い環境にある良いタギングだ。しかし、タギングより上の何も書かれていないざら紙を厳重に画ビョウで留められているほうが気になってしまう。それほどまでざら紙が大事か。

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凄く達筆だがそれ故に解読不可。
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GATSと書かれたステッカー。これは人気のある観光地ではなく、寂れた寺の多い地区の掲示板に貼られていた。それだけに存在感のあるステッカーだった。

 

以上が今回の旅行にて京都で見たタギング&ステッカーであった。尚、それらの内の多くは三条駅の近くで発見し、一部のみ京都国立近代美術館近く、そして最後のステッカーは唯一承天閣美術館近くで発見した。

振り返ってみるとBLUEONERというチームが圧倒的に多い。同じ近畿でも大阪、兵庫、奈良では殆ど見られなかったので京都を中心に活動しているのだろう。

 

 

○○「寝ることが趣味です」

現代において、寝ることが趣味という人は意外に多い。

特に私が中学生の時分にこの趣味を持った人が周りに最も多く、三十人いるクラス内に約十八人も存在していた。

しかし、感覚的にも読者の殆どはこの"寝ること"は趣味とは思えないであろう。

なぜなら、"趣味"という言葉は、個人的によくお世話になるコトバンクによると、こう書かれており、──一般にはより広く教養や美的感受性を養うこと,それに役立つ活動をいい,読書,各種の芸術の鑑賞,職業としてでなく作品の製作を楽しむことなどが趣味の代表といえよう(趣味(しゅみ)とは - コトバンク)──寝ることは明らかに一般的な趣味の定義からは外れているからだ。では何故、現代では"(本来趣味とはなり得ない)寝ること"を堂々と趣味と言い張る人が増えてきたのか。前置きが少々長くなったが、今回はこれが主題である。

ずばり、その理由は、「趣味は寝ることです」という言葉に含まれた退廃的な魅力に多くの人が惹かれているからであろう。

読んだのは少し前なので具体的な文は提示出来ないのが残念だが、梁石日さんの『タクシードライバー日誌』(1986)筑摩書房という本には面白い文があった。著者は、起きている間はほぼ常に働くことで社内営業収入ダントツトップを誇っていた人物に対して、「彼は寝ることが唯一の楽しみだと言っていた。正に彼は寝ることが趣味なのだ」と書いたのだ。

この時、"寝ることが趣味"というのは皮肉的な意味を含んでいる。この"皮肉的"という単語が重要なのだ。

冒頭で"寝ることが趣味"と言う人は中学生の時期に最も多いと書いた。

そして、この中学生の時期、つまりモラトリアム真っ只中の時期には、退廃的な物事に興味を示す。"退廃的な物事に興味を示す"とは、グロテスクな漫画、不健康なモチーフが好きになること、そしてニヒリズムという言葉を崇め、自他共に対して皮肉的な態度をとりたがることなどを指す。

さて、ここでもう一度"寝ることが趣味"という言葉について考えてみよう。

先程、"寝ることが趣味"には皮肉的な意味が含まれていると書いたが、それは何故、皮肉的な意味をもつのか。

それは触りに書いた通り、"寝ること"は明らかに趣味の定義からずれているからだ。さらに言えば、"寝ること"というのは生産から最も遠い、怠惰を連想させるような、"何もない"言葉だ。

つまり、「この世には趣味になるほど価値のある物事は何もない」という、正にニヒリズムな主張をニヒリストが好む皮肉という手段にのっとった結果が、「寝ることが趣味です」なのである。

そこから更に掘り下げると、「寝ることが趣味です」と発言する者はモラトリアム真っ只中であり、その言葉は必死にもがきいた末、この世に意味が見いだせないと感じた際の嘆きなのだ。